自分は発達マイノリティである_vol.1

ADHD?ASD?発達障害・・・

このシリーズでは、ちょっと化学とは離れて、
よく理系界隈の人たちや、研究者気質の人に良く見られがちな個性
についてざっくばらんに記事に使用と思います。

そんな私も、日本では発達障害を持ってる人間に区分され、
障害者手帳を持つ身です。障害者でも、Wordpressでブログを開設できますww
というか、私は発達障害という言葉が嫌いです。
しかし、WAIS-IVの検査やAIDSの検査で、知能の凸凹があり、自閉症スペクトラムで
あると診断されたのは事実です。

それを、日本政府が障害者と定義するのであれば、
日本に住む以上、私は障害者なのでしょう。
生きづらいけどね。

何が、私を生きづらくさせているのか。

それは、私のアイデンティティ、「価値観とこだわり」が関係します。

あなたにとって幸せや幸福なことは何ですか?

美味しい食べ物を頂くこと?旅行に行くこと?
お金がもらえること?誰かと遊ぶこと?
寝ること?

今の私にとって、最たる幸福は
「健やかに痛み無く死ぬこと」です。
早速、病んでる人の言葉が出てきたよって思った方もいるでしょう。
ただ、私のこの回答の理屈は以下の理由から来ます。

人間は産まれた瞬間から死に向かって生きている。
その死に方は自分で選ぶことが出来ない、人生ゲームである。
突如、交通事故で死ぬことや、病気や手術で後遺症を患いながら
いつ死を迎えるかも分からずその日が来るまで生きていねばならない。
その苦しさから、自分から死を選ぶことも可能だが、
そこには生きたいという本能を圧倒するだけの死ぬ覚悟と行動力が必要で、
必ずしも楽に死ねる訳ではなく、最悪本人の意思に沿うことなく生き返ってしまう。

ただ、この人生ゲームは産まれた国や地域、家庭による社会性によって
自身の価値観が変化するため、ハードモードの人もいれば、
楽しまないと損だろうという人もいる。
どちらの価値観が良い、悪いはなく、そもそも人間社会自体がそんな多様性から
なるものなので、他人を羨むこと自体普通である。

一つ言えるのは、羨んでも何も変わらない。それだけである。

私は、日本で生まれて今の家庭の中でここまで生きてきた。
その中での経験で、なぜ人生ゲームが人それぞれで
難易度が異なるように感じるのか。環境が一つの要因ではあるが、
例えばある程度年収の低い家庭でも明るい人間はいる。

なぜなのか。言葉とその解釈の仕方が違うことが一つの要因な
可能性もある。

例を出すと、私の母は2020年の6月、65歳で他界しました。

これを周りの人に、「お母さんは?」と聞かれたときに、
私はこれを伝えます。
この言葉を聞いた方は、「それはまだつらいね、さびしいね」と
声をかけてくれます。

ありがたいと思いながら、私はこう考える。

「死」という言葉自体には「死」という意味以上以下もない。

死という言葉を、沢山苦労をかけてしまって親孝行したかったという
後悔という感情を母にもちながら、その死という事実を見るから
目から水が出るのだと。

よく、母からは「あなたたちが居なければとっくにお父さんと別れてた」
と言い聞かされてました。
だから、私は必死に、役に立つ人間だと頑張ってきた。
産んでよかったって思ってもらうために。
そのために、頑張ることが私の生きる意味と価値観となった。
だが、母は急死した。

心に穴が開いた。うつ病になり、精神科に入院して、
先生との診察の度に衝突して、面倒見切れないと
病院をたらい回しにされた。

私は、生きることにもう後悔はないと医師に言い続けた。
楽しみもなにもない。ただ、こうして自動的に呼吸し生命維持する事実に
絶望しかない。私の命は私のものだ。誰のものでもない。

これが、私の生きることへの拘りである。私の命は私のもの。
生きることにもはや後悔はない。だから、健やかに死なせてくれる権利はないのか?

周りの人間?むしろ、急な事故死の方が
日本人は悲壮感をあおるのではないだろうか。

すべては、言葉側にはそれ以上の意味はない。
人間それぞれが、生まれてきてからの価値観フィルターでその言葉や背景をみるから
ああだこうだと議論する。
だからデータや数字を扱う学問を挟む必要があると
私は思う。

心の病気をうつ病という人がいるが、
心は身体のどこにあるのだろうか?

答えは、脳である。つまり、心の病気は脳の病気なのである。

巷で話題のADHD、ASD、発達障害。。。

私は、ASD(自閉症スペクトラム症)が強めだし、
不安障害やパニック障害、ADHD(多動性、注意欠乏症)、乖離性障害、
HSP、引きこもり症候群、サイコパス(アンチサイコパス)

言い出したらキリがないくらい、
性格がとっつきにくいという残念な医師お墨付きである。

生きていて、楽しいことって何だろうって真顔になり固まるし、
生きることは修行。修行辞めたいという自殺者数も2万人いるくらいなら
安楽死合法化してほしいという合理主義者でもある。
思ったことは、そのまま無意識に言葉に出してしまい、
非合理的な人やルールを守らない人、など完璧主義な拘りによって
感情コントロールを失い一気に排除しようとする。

つまり、ロボットな私である。

常に人間社会に生きなければならないことに、ストレスを感じ、
人間であることにもストレスを感じ、
その命の権利も私にはないことに絶望というストレスを感じ、
周りの人間の動きや言葉の選択の傾向にも
頭のメモリーを持っていかれ、
その中で、食事も仕事も家事も睡眠もとらなければならず、
もちろん、ストレス発散方法など私自身分からない。

友達とゲームをしているときは楽しいと思わないのか?
そう聞かれると、複雑である。
楽しいという感情より、私と話した時間を楽しんでもらえたかという結果が
気になる。その結果が良ければ、よし。となり、そうでなければ
次関わるのはやめておこうとなる。

つまり、ここで言いたいことは、何か周りと感覚がズレていることだけは
分かり、組織に馴染めない社会不適合者ということである。

ちょっと、性格いっちゃってるよねというレベルではなく、はるか先を
いっちゃっていて次元が違うレベルである。
それは、もはや強い個性なのだが、強すぎる個性は日本では淘汰されやすい。

無駄なことを無駄だと言う、プロジェクトクラッシャーだとか、
合理主義者だとか。細かいことを指摘して、話がズレたりして怒られたりとか。

これまでに、なぜそのように言われなければならないのか意味不明で、
事実を言われてキレるなよと鼻で笑ってたりもした。

別に、その人たちが嫌いなわけではない。
組織や会社にとって、利益を生むこと、問題を明らかにして解決すること、
人間のなれ合いでそれが解決できるのであれば、なれ合いでもしてろ。
というなんかわからない、私のストイックな拘りが感情コントロールできず
暴走しているからである。

そんな私の性格や障害、を知らない人からすると、世知辛い人間だと思うだろう。
やけに攻撃してくるなーと。

攻撃しても、問題は解決しないのだがと思っているのだが、
淡々と話すロボットな私は圧があるらしい。
私は無意識なので、いつそのスイッチが入るが分からない

だから、組織で働くことを主治医はすすめない。
ストレスがたまり、またうつ病を再発することが分かり切っているからだと。

そうかもしれない。

実際、大量の抗不安薬と抗うつ薬、精神安定剤を飲まないと
毎日出勤することも、相手とコミュニケーションとることでさえも
ままならない。

そんな服薬している私は、症状を隠している。
化学のお仕事をするためだ。

つねに過呼吸がでるかもというリスクが付いて回る。

そうならないために、ここまで療養に励んだ。

生きたくない割には、よく頑張っているとたまに自分をほめる。

もう一度言いたい。発達障害、うつ病など、心の病は精神神経科という
脳の病気を治すところで治療する。
話を聞いて貰って治ったという方と同じにされてほしくない。
お金の不安、家庭への不安、そういう環境が改善されたり、
脳のホルモンバランスが良くなったり、そういう根本原因を解決しないと
愚痴ったところで変わらない。それで、すっきりするならうつ病ではなく、
一瞬の抑うつ気味ってやつだ。

このしんどさを甘えだとか、どうこう言ってくる人間を
私は軽蔑する。
それを甘えだとかもう少し頑張れと言える人は、最初からその人を
隣で支えた人間だけが言えるわけで、他人がどうこういえることじゃないと思う。

そう、思う。



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